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その26 東京オリパラ終了!

新型コロナ感染症のパンデミックで1年延期した東京オリンピックとパラリンピック(以後オリパラと省略します)が、コロナ禍真っ最中の7、8月に開催されました。開催される前には、感染症がオリパラによって国内外に拡大する懸念も指摘されていましたが、観客数を制限したり、選手や関係者の検査をこまめにするなどの対応で何とか乗り切りました。
さて、私自身は健康維持と自分の楽しみのためにスポーツをするのは好きですが、人と競争するほど得意ではありません。したがってオリンピックに出場する選手や、ましてはメダルを獲得する選手に対しては、普段から畏敬の念を抱いています。それはパラリンピックの選手でも同様ですが、オリンピックと比べるとニュースやテレビ放送が少ないので、これまであまり馴染みはありませんでした。

けれども今回のオリパラは東京開催だったので放映時間の時差などもなく、選手たちが格段に身近に感じられました。私にとって特に印象深かったのは、視覚障害のスイマー、木村敬一・富田宇宙両選手の特集番組でのインタビューの言葉です。二人は東京パラリンピックの100メートルバタフライの決勝でともに戦い、それぞれ金メダルと銀メダルを獲得しました。
 木村選手は2歳の時から視力を失い、富田選手は高校生の時に目の難病と診断され、次第に見えなくなりました。二人はよき友でもありライバルでもあったそうですが、パラ水泳に懸ける気持ちは少し異なっていたようです※1。富田選手はもともと水泳選手でしたが、オリンピックを目指すほどではなかったとのこと。ところがパラアスリートになって、急にトップアスリートとして期待されるようになり、違和感を覚えたそうです。そして、友でもライバルでもある木村選手に対しては、「是非金メダルを取って欲しいと応援している」というコメントがありました。でも、木村選手は、「実は僕はそう言われるのは好きじゃない。自分が金メダルを欲しいと思わない奴と戦うのって何なんだろう、と思ってしまう」というのが本音です。どちらの選手もそれぞれ正直に、また自分の言葉で思っていることをコメントしており、私は彼らのバックグラウンドや心情の違いを知ることができ、より身近に感じられました。

そういえば昔、私が医学生だったころ、解剖実習に目の見えない人たちが見学に来たことがあるのを思い出しました。実習で筋肉や神経、血管などの実物を触りながら説明すると、見学者の人たちは一度で覚えてしまい、それらの位置関係を間違えることはありませんでした。私たちは目で見ながらも、どれがどの組織なのかをしばしば間違えることがあったので、彼らの正確さに驚き、感心しました。目が見えなければ、触知の感覚でより正確に位置関係を把握し、視覚を補っているのだと思いました。

私が最近読んだ、「目の見えない人は世界をどう見ているのか」という本によれば、目の見えない人は視覚を他の知覚系で補うだけではなく、世界観そのものも違っているようなのです。すなわち見えないことによって失われるものもあれば、見えないからこそ得られるものもあるということです※2。たとえば「富士山」を思い描く場合、私たち目が見える人は「てっぺんが欠けた三角形」と表現するのに対して、目が見えない人は「てっぺんが欠けた円錐形」と考えるそうです。実際の山の形をより表わしているのは、三角形という2次元の形よりも円錐形という3次元の物体の方です。目が見える私たちは、写真や絵の富士山を見慣れているので、どうしてもそのイメージが強くなります。実際には3次元であるということは分かっていますが、感覚的には2次元のイメージでとらえがちです。
 障害者の人たちは、失う機能もあるけれど、ほかの方法でそれを補い、またはある意味凌駕して生活しています。私たちはいろいろな障害があることを広く知り、健常者からの一面的な見方だけではなく、障害のある人たちから発信されるものを受け入れたりそれらを想像することが大切ではないかと思います。


※1:木村敬一|富田宇宙|この日にすべてをかけてきた|パラ競泳|東京パラリンピック|オリンピック・パラリンピック|NHK
※2:目の見えない人は世界をどう見ているのか 伊藤亜紗著 光文社新書、2015

(2021/10/04 17:10:37)

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