時をかけるおばあさんたちTime Travelling Old Ladies
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その10 記憶のしくみ:アメフラシから人間まで

新型コロナウイルス感染症に対して4月半ばには日本全国に非常事態宣言が出され、美術館・動物園・水族館などが軒並み臨時閉館となりました。東京のすみだ水族館では、チンアナゴが人間を忘れてしまい、飼育員が近づくと土にもぐって隠れてしまうことが話題になりました。そこで飼育員は、チンアナゴの周りに携帯電話をいくつも立て、ヒトのライブ画像を見せることを思いつきました。確かに、水槽のガラス越しに人が外から眺めるのと同じ感じになりますね。ビデオ通話をしてくれる人を募集したところ、沢山の応募があったそうです。そして、いろいろな人の画像にしばらく囲まれると、チンアナゴはまた人を怖がらなくなったそうです。
記憶という機能は、とても高度な働きのように思えますが、実はヒトやチンアナゴを含む魚類などの脊椎動物だけではなく、もっと原始的な軟体動物でも詳しく観察されています。記憶を担う脳の神経細胞の形態や刺激伝達の方法は、これらの動物すべてで驚くほど良く似ています。アメリカ人のエリック・カンデル博士らがアメフラシという軟体動物を使って神経系の情報伝達に関する様々な実験を行い、2000年にノーベル医学・生理学賞を受賞しました。博士は、さらに「記憶のしくみ」という一般向けの解説本を執筆しています※1。その本の中から、私が面白いと思ったトピックスを以下にご紹介します。
アルツハイマー型認知症では、初期に脳の海馬という部位が障害され、記憶障害が進行してきます。実は、海馬が記憶に重要な役割を果たしていることが分かったのは、50年以上前に手術で海馬を取り除いた人に記憶障害が見られたことが報告されたからです。カナダに、度重なるてんかんを患っていた30代男性がいました。主治医のドクターが、てんかんの原因部位であった両側の海馬を焼いて除去する手術を行いました。すると、患者のてんかんは治ったのですが、その後酷い記憶障害が出てしまったのです。この患者は、普通にしゃべれるし、理解力もあるのに、新しく記憶することができなくなり、また少し前のことを全く思い出せなくなってしまいました。記憶には覚えている長さによって3つの種類があります。即時記憶・短期記憶・長期記憶です。この患者では、短期記憶だけが障害されてしまいました。耳で聞いた数字などをすぐさま復唱する即時記憶と、昔のことを覚えている長期記憶は保たれていました。
短期記憶は海馬に蓄えられますが、長期記憶は脳の皮質などの他の部位に広く分布するようになります。だから、海馬だけ障害を受けた患者では、長期記憶に関しては問題ありませんでした。また、短期記憶が長期記憶として貯蔵されるためには、記憶固定の時間と新しいタンパク合成が必要となります。「逆行性健忘」と言って、頭部に強い衝撃を受けると、その前に起きたことを忘れてしまう病態があります。小説やドラマなどでもしばしば出てきますが、そのメカニズムはあまり知られていません。実は、衝撃直前の一定期間のできごとは、短期記憶から長期記憶に移るプロセス時に障害を受けるために、長期記憶として残らずに失われてしまうそうです。また、アルツハイマー型認知症では、進行すると短期記憶だけではなく、長期記憶も失われますが、それは大脳皮質にも病気が広がり、長期記憶を蓄える神経細胞も失われるからです。
逆に、記憶力がとても良い人の生活はどうでしょうか。何でも記憶しているので、とても便利でうらやましい感じがします。ところが、実際はそうではないようです。稀に、1日中の出来事をすべて覚えている人がいるようですが、すべてのことに関する細部の記憶がはっきりとよみがえってしまうため、全体をすっきりとまとめることができないそうです。また、夜寝ようとすると、頭の中に朝起きた時からの一部始終を思い出してなかなか寝付けなかったりするそうです。そうすると、程好く忘れることも、生活を快適にする能力のひとつのようです。
そうは言っても、普通の記憶力の人間にとっては、記憶力を高めたい場合もあります。そのためには、何度も繰り返し練習することが大切です。練習を繰り返し何度も刺激を与えることによって、神経細胞同士の連絡(シナプス)が広がり、より強固になるそうです。この効果に関しては、ノーベル賞級の研究者たちが、ヒトやいろいろな動物で実験した膨大なデータがあるので保証付きです。年だからとあきらめず、繰り返し自分の神経回路を鍛えて記憶力を伸ばしましょう。
※1:「記憶のしくみ 上・下」ラリー・R・スクワイア、エリック・R・カンデル著、ブルーバックス、2013年
(2020/05/22 10:52:38)